歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

心に大地真央を飼う

 

学生時代の友人が結婚したらしい。らしい、というのは私は式に呼ばれていないから。友人のインスタのストーリーで知った。知らなくていいことを知ってしまうとは、これか。母に「いいんだけどさ〜ちょっと寂しいよね〜」とこぼす。この「いいんだけど…いや…寂しくないと言えばウソである」な心情は高校生ぶりではなかろうか。母が「そういうことってあるよ〜私もそこそこ仲の良い人たちといて、なぜか私だけ結婚式呼ばれなかったの〜」と話してくれた。それは私よりヤバいんでないの?と笑った。五十歩百歩である。

恋人に話すと、けらけら笑われたあげく「あ〜あなたよばれなさそうだもんねぇ」と納得感を示された。最近では彼に「友だちがね」と話すと、友だちじゃなくて知人って言いなさいと訂正される。きつい冗談だわ。

ふだんの私なら、気にしないようなことを今回はわりに引きずっている。理由はかんたん。タイミング良くダブルパンチをくらったからだ。中学校テニス部何人かでお食事に行っているのもSNSで目にしてしまった。中学生のときに気の許せる友人なんて二人ぐらいだった。だからその集まりに呼ばれなくったっていいのだ。ただ、今でも二人で旅行に行く仲の良い友人は呼ばれている。彼女と私の違いはなんだろうな…と考えても仕方のないことに絡め取られてしまった。

なんで私はこうなのか、漠然とした悩みを抱え、学生時代の友人に会うことになった。結婚式に呼ばれなかった話をした。有り難いことに笑って聞いてくれた。そして「そもそもその結婚式に呼ばれたら本当に喜んで行ってた?」と聞かれた。そのときは食い気味にもちろん!と応えたが、どうだろうか。冷静に考えると、私は彼女のお祝いじゃなくて、他の友人に会いたかったのだと思う。それが「行きたい」の本音だった。誤解があると困るのだが、結婚式を挙げた彼女をわたしは友人だと思っている。共に学んだ友人の一人だ、嫌いなわけがない。若干の希望も含まれているかもしれないが、彼女も私のことを嫌いなわけではなかった、と思いたい。ただ結婚式に呼ぶほどではなかった。

 

学生時代から、何かの折に好意的な意味で発せられる「あの子も誘おうよ」の「あの子」になったことがない人生だ。

人と人のおつきあいに「一切気を遣わなくていい」なんてありえない。でも、「一緒にいて楽しい」と「気を遣うしんどさ」とを天秤にかけたとき、前者に傾く人と時を過ごしたい。わたしは天秤にかけたとき「気を遣うしんどさ」が勝つことが人より多いのだろう。思えば、複数の友人と一緒に帰ることすら得意じゃなかった。変に気を遣うのだ。笑顔で挨拶をして、ススっと離れる処世術を身につけた。

そういう雰囲気は良くも悪くも相手に伝わる。自分の快適さを優先してきた結果がこれ。幸か不幸か、このお誘い断ろうかな…という悩みもほとんど無くなった。なぜならお誘い自体がないので。会いたければ自分で誘うしかない。そうかそうか、自分の選んできた行動の積み重ねの結果がこれなんですよね。

当然のことだが、私の好きな友人たちは一緒にいて変に気を遣わない、緊張しない。とても楽しい。「相手を緊張させない」「相手をありのままでいさせられる」をできる友人たちのナチュラルな人間性はとてもいいものだ。私にはないものだ。

 

「意地が悪いから一緒にいたくない」と思われていなきゃいい。なんとなく距離があるだとか、一緒にいて楽しくない、気が合わない、ぐらいの理由で友人が少ないのは問題ない。

友人関係は社会不適合者の烙印を押されない程度に、適当にやれる方だと思う。しかし私は「適当」の範囲が広く、「大切にきちんとしたい」の範囲がとても狭い。そこで、『心にいつも大地真央』だ。大地真央の役者的美貌を拝めるアイフルのCMを思い出してほしい。「そこに愛はあるんか?」と心の大地真央さまに問いかけてもらう。

「適当にやれる」を盾に人に失礼なことをしていませんか?気を遣うのがイヤを言い訳に相手に不愉快な思いをさせていませんか?これらを総括する、自分を戒める一言が「そこに愛はあるんか?」だ。嫌いな人でもない限り、「適当」ではなく、きちんと丁寧に接したい。あなたの他者に対するその行動や発言に愛はあるのか?あとは実行!実行!相手に冷たい人、適当な人、意地の悪い人にならないために。


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