歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

コップから垂れた水をなめる


『あんた今、ポタポタ落ちてくる水の下にコップ置いて、水貯めてるとするわね。あんた喉が渇いたからってまだ半分しかたまってないのに飲んじゃうだろ?これ最低だね。なみなみいっぱいになるのを待って、それでも飲んじゃダメだよ。いっぱいになって溢れてたれてくるやつ…これを舐めて我慢するの』

マルサの女山崎努の台詞だ。お金の勉強として手始めに自宅にあった「金持ち父さん、貧乏父さん」を読んだ。父の書庫から引っ張り出してきた。
中流以下の人間はお金ができたら、それで贅沢品を買う、そしてまた働く、お金を使う、働くをずっと繰り返す。」ということが書いてあった。身に覚えのある行動。貯まったお金でハイブランドのバッグを買おうかと思案していたところ。大変身につまされた。そうじゃないんだと、著者は綴る。お金で買うのは資産だと、そしてその資産から出た利益で贅沢品を買いなさいと。あなたはずっとお金のための労働者でいいのかと。………………打ちひしがれる。そしてふと、冒頭の台詞を思い出した。あぁ、『コップから溢れた水で喉を潤す』とは、自らが出した利益で贅沢ををするということの暗喩だったのか。数年経って合点がいく。
お金と労働のパラダイムシフトが起きた。ショックを受け、その晩、母にハイブランドのバッグは延期することを伝える。

バックミンスター・フラーの「富」についての考えが面白かった。富めるものになりたい、多くの人の願いだろう。かく言うわたしもその一人だ。でも「富」っていったいなんだ?フラーの答えは単純明快でわかりやすい。『あなたが今仕事をやめたらどれぐらいの期間生活ができるか』それが富を測る尺度だ。少し立ち止まり考える。収入源が労働しかないのだと気づく。今ある預貯金を使い果たす前に新たな仕事をはじめる必要がある。そんな状態で、ハイブランドのバッグは違うんじゃないか。
せっかく貯めたお金だ。無くなっても困らないお金だ。いや困るけど、無くなってしまったら、めちゃくちゃ落ち込むけど、それでも生活に支障はない。そのお金でブランドバッグではなく、お金のなる木を買うことにしようと思う。近いうちにコップから溢れた水の一部でブランドバッグを買えたらいいねぇ。