歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

1Q84 「手を握る」の発想の契機について

1Q84を読んで思ったことを書きたい。感想なんていう立派なものじゃなくて、私の脳の中で過去の記憶と繋がった些細なこと。「手を握る」発想の契機について。脳の中にある色んなものを繋げたり重ねたりすることが個人的に好きなので書き残しておきたい。


青豆さんと天吾の触れ合いはたったの一度、小学5年生のとき。教室で青豆さんが天吾の手を握ったことだけ。たったそれだけを頼りに生きてきた、特に青豆さんは。この『たった一度「手を握った/握られた」という思い出と行為がその人の生きる頼りとなる』という発想の契機は、村上春樹が取材したオウムサリン事件の被害者へのインタビューじゃないかと思う。彼は取材の中で重い後遺症を負った女性と出会う。一通り彼女のインタビューを終え、お別れするとき彼は彼女と握手をした。その時に感じた彼女の“力強さ”についてあとがきで詳しく書いていた。
身体は心の容れ物じゃない。身体は意志と記憶を持つ。青豆さんに手を握られた感触を天吾が思い出すとき、村上春樹は執筆しながら、記憶にある被害者の女性と握手を交わした感触をしっかりと思い出していたのだと思う。村上春樹が感じたその握手の優しさと強さを身体と心で咀嚼して、血肉とするためにこの設定が用意されたのだと思う。
この考察はあながち間違っていないような気がしているのです。

私はこういう『世界の秘密を誰かと共有すること。そしてその記憶が結晶となり、ずっと心のなかで輝きつづける』が大好きなんです。たったひとつの言葉やたった一度の行為がその人を支え、生きる理由、あるいは生きる気力の源になるっていうやつ。
1Q84を読み終えて、すぐに全冊ほしくなった理由は、この物語が二重の意味でその“好きなこと”をやってくれたからだろう。