歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

月が2つの世界と「共鳴装置」の話

今週のお題「おうち時間2021」

村上春樹1Q84を読んでいる。内容が性的な暴力の絡む話でもあるので読むのが苦しくなる。がしかしどうしようもなく面白く、昨夜も結局深夜2時まで起きてしまった。真夜中、ふと本から顔をあげると今いる世界が“““ほんとうに自分の知っている世界なのか”””わからなくなって心の芯から凍るような恐怖を感じた。カーテンを開けて、空を確認したい衝動にかられる。月は変わらず1つだけかしら、2つになっていたりしないかしら、と。
本を手から話すのも一苦労だ。今は第2巻。とうとう青豆さんが黒幕と思われるーフカエリに虐待を行った実の父親ー男を“あちらの世界”へ送るためにホテルオークラで出会うところで本を手放し、喫茶店に逃げてきた。彼の小説は夜読んではいけない。この後、帰宅しても本を手に取らずに眠りたい。そうでなければまた、おそらく全てを読み終わるまで今夜は寝れないことになるだろうから。なるべくあの物語とは離れた現実的なことを考えなくてはならない。現実的なこと、例えば、今やっている投資の管理とか、今後の投資方針はどうしていくかとか。
このブログを書き終わるまで帰宅しないつもりでいたが、今日中に終えられる気がしない。明日もう一度推敲することになりそうだ。

村上春樹河合隼雄さんとの対談で小説、特に長編を書くことは黄泉の世界に降りていく作業だと語っていた。物語に共鳴すると、必然とそうなることではあるが、私たち読み手側も気をしっかり保っていないと黄泉の世界に引きずり込まれそうな恐怖にかられる。
この黄泉の世界=「どこか違う世界に連れて行かれる物語」の共鳴は作り手の類稀なる才能(ここで言う才能とはその黄泉の世界へと降りて降りて降りて、また登り、それを物語として編むことができる精神力と体力を指す)はもちろんであるが、それとともに、受け取り手の周波数と語り手の物語の周波数が合ったときに起こることのように思う。先ほど、『共鳴』と書いたが、高校の物理で学習する音叉のイメージだ。
その人自身の持つ周波数は、一定ではなく、体調などのコンディションや、年齢やによって変わるものと思っている。
受け取り手の周波数と語り手の周波数が共鳴するのはなかなか起こらないことで(少なくとも私は年に1回あるかないかだ)、私はここのところ村上春樹の小説とよく共鳴するようになり、すっかりハマってしまった。以前共鳴したことがあるのは、クストリッツァ監督の「オンザミルキーロード」と偶然にも村上春樹を好きになったきっかけのノンフィクションと同じタイトルの「アンダーグラウンド」、韓国映画の「お嬢さん」、ベロッキオ監督の「甘き人生」、岩下俊二の「リップヴァンウィンクルの花嫁」であった。これらの物語は、理論的に起こり得ないことかもしれないが、全て『ほんとうの出来事』だ。わたしの心のなかにある、真実である。奇しくも、そういう『物語』がこの世にあることを教えてくれたのは、上記に挙げたものと同じ映像作品にあたる黒澤明の「羅生門」だ。幸運にも私は共鳴できる物語に出会うことができている。


村上春樹のことはすっかり好きになってしまった。あんなに苦手意識があったのに。
まず、彼は身体性を大事にしているところがいい。だからだろう(今のところ2作品しか長編小説を読んでいないが)彼の小説にはセックスに関する描写が多い。自分の心身は共に他者によって定義づけられる部分がある。純粋な“わたし”とは存在しないものだ。だから人と関わる物語の中に身体性が出てくるのは当然のことであるし、人との関わりの中で性、性行為について語られるのも至極当然のことだ。
もうひとつ、彼の書く女性たちはとても魅力的だ。お洋服のセンスが良い。青豆さんは初めての登場シーンでシャルル・ジョルダンのハイヒールを履いていた。今じゃ時代遅れのブランドだけど、小説のときは1984年、なるほど。夜遊びに出かけるときはフェラガモのイヤリングや、華奢なゴールドのブレスレットをしていた。高貴なる婦人は自宅の植物園でブルーのタンガリーシャツと白いパンツで作業をする。その女性はセックスの記憶が、老後の体を温めるのだと青豆に話す優雅な人だ。天吾の勤める予備校の有能な事務の女性はアニエス・ベーのジャケットを羽織る。木元沙羅はハンドバッグのニュアンスカラーと同じ色を爪にほどこすような女だ。こういった魅力的なディティールはどこから持ってくるのか。村上春樹のお付き合いしている女たちのセンスの良さか、あるいは彼自身の受容体のセンスか、そのどちらもか。


案の定、喫茶店でブログを書き終えることはできなかった。けれど、今日中にはアップできるので及第点。
赤ワインと美味しいステーキをいただき、ほろほろと気分良く残りのブログを書き上げた。この気分のままお風呂で温まり、眠りにつこう。月が2つ夜空に浮かぶ物語は明日に再開する。
明日は恋人とデートなのだ。寝不足は著しくお肌のコンディションが下がる。
もう22:30を過ぎた。スマホは月のアイコンが表示され、おやすみモードに入っている。月はひとつだ。

雨は蕭々と降っている

休日と休日の間の金曜日、電車に乗り職場に向かっている。恋人も父も仕事がお休みで、いいな〜行きたくない〜休みたい〜とうだうだしたおかげで朝ごはんを食べられらなかった。そもそも昨夜、恋人の家から帰宅したのも夜11時をまわっており、就寝したのは2時を過ぎてからだった。計画的寝坊といえる。

生理前ということもあり、昨夜のアルコールがまだ残っている。飲酒したあとにめんつゆを少し飲んでおくと翌日にお酒が残りにくいという話を聞いたことがある。真偽の程はさておき、昨夜も冷蔵庫からめんつゆを出し、スプーンに2杯ほど飲んだが、そんなものでは回復できなかった。……深夜お台所の明かりが煌々とついているので、不審に思い覗いてみたところ、そこにいたのは……そう、めんつゆをすする女の妖怪……と一人妄想しながらめんつゆを飲んだ。おいしかった。

 

28日の夜、恋人が大阪に帰ってきてくれた。わたしがJR線と御堂筋線を勘違いしていたせいで、なかなかうまく落ち合うことができなかった。どこにいるの?と恋人からかかってきた電話に「私ちゃんと言われたところにいるもん」とかなりぶうたれながら答えていたが、私の間違いであった。だってねぇ、新大阪駅ややこしいもの。失敬失敬。

昨日はワインとおつまみを見繕って彼の家でゆっくりしていた。彼のお母さんが作ってくれたバナナシフォンが美味しかった。雨音を聞きながら、彼の腕を枕にとりとめもないことを話しているとふと、大阿蘇の詩が思い出された。

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう

中学生だったか、国語の教科書に載っていた。いい詩だと思う。「雨」と「馬」と地球の長い営みの中でできた「カルデラの土地」とが誰でもない何かによって語られる。それぞれのイメージが美しく重なってできた詩。

酔っぱらい、恋人の腕の中でよだれを垂らしてスピスピ眠った。

 

 

今は時間休をとり、帰りの電車に揺られている。アルコールは抜けたような気がするが、睡眠不足のせいか眠たく無気力だ。休日の間の労働がとにかくイヤなのも無気力の原因のひとつだとは思うが。帰りにラーメンを食べて帰ろうかな。明日も雨らしい。

 

待ち合わせはネオンの消えた交叉点で

ネオ東京ラプソディ、山下達郎の好きな曲のひとつだ。この曲は春の陽射しが似合うと思う。歌詞には「こんなけだるい夏のおわりは」とあるから夏の曲であるはずなんだけど。

東京は夜の7時。原曲はもちろん、リオで披露された椎名林檎の返歌どちらも好きだ。原曲の「ピチカート・ファイヴ、東京は夜の7時」『じゃあ大阪は?』「フフフ ぇ…夜の7時!」と応える野宮真貴さんの可愛さたるや。

 

私のロマンチック馬鹿な脳は、東京にいる恋人に会いに行くとき新幹線の中で聞く音楽を早くも決めているようだ。椎名林檎バージョンも含めて上記の3曲。いつ東京に行くかは決まってもいないのに。かなりハッピーな脳をしている。

 

 

26日で遠距離になって丸一月。変わったこと。

平日の夜、デートをしている男女を見ると、ええなぁ〜〜〜〜!!!!私も仕事帰りに好きな男とご飯食べてイチャイチャしたいぃ〜〜〜!!!と心の中でジタバタするようになった。恋人には電話の度に「私が道行くカップルを殺める前に早く帰ってきてちょうだい!」と叫んでいる。

仕事が忙しくなると、すぐにサボってしまう筋トレは1ヶ月継続できている。過去の成績が1ヶ月継続→1ヶ月サボるの繰り返しなのであまり信用できる実績ではないが。彼に次会ったとき、筋トレサボったねぇと怒られるのがイヤで継続できている。

昔のように本をよく読むようになった。毎週末二人でお出かけしていた代わりに、一人で図書館に通う。気が向いたらそのまま喫茶店に行き、借りた本を読んだり、書き物をしたりしている。梅田あたりに出る頻度も減り、好きな街でゆるゆる過ごしている。図書館はいい。借りても気分が乗らなければ、躊躇いなく読み終わらずに返却できる。なんてったって図書館だ。読みたくなったらまた借りればいい。本はいつでもそこにあるのだ。図書館は私の本棚と言っても過言ではない。お金をかけることなく、たくさんの本を読ましてくれる。雑誌も置いてある。冷やかし半分で読んだVERYも案外いいことが書いてあったりする。タキマキやシンマイさんの足元には遠く及ばないけれど。村上春樹がたまらなく面白いことを発見した。彼がオールアウトで打ち込めると語った長編は「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」しか読んでいないが。今から1Q84を読むところ。昔は全く読めなかった作者とこうやって時を重ねて、人生のコンテクストの中で出会えるのは、とても尊いことだ。彼の物語の質量は大好きなクストリッツァ監督と同じもののように思う。彼らの物語での出来事は全て、『本当のこと』だ。

 

環境からのアプローチでしか、変わることができないのは私のあまり良くないところだと思うが、もう諦めている。大前研一さんだって、環境を変えなきゃ人は変われないよ(大意)と言っていることだし。

 

電話のとき、彼の声と笑顔は変わらず甘くて、それがとても嬉しい。きっと、あなたの瞳は優しい。早くあなたに逢いたい。


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4/24 曇りのち晴れ

緊急事態宣言が発令された。

政府への恨みつらみを上げればきりがないが、『オリンピックのため』を金科玉条に我慢を強いるわりに、お前たちはワクチンもろくに確保できないのかと怒りがこみ上げる。医療従事者へのワクチンすら十分確保できないなんて。どういう交渉をしたのだ。イスラエルに関しては莫大なお金が物を言ったと想像できるが、その他新興国にすら負けているワクチン接種率。オリンピックなんか無くなってしまえばいい。女王陛下のお気に入りでファ○クと連呼しながら廊下をどすどす歩くエマ・ストーンの気持ちでいる。

 

母とお着物を着て、フレンチを食べに行きましょうという約束は先延ばしになった。これで延期は三回目。一回目は昨年の緊急事態宣言で、二回目は大雨でキャンセルにしたのだ。着物を着るから気候が穏やかな晴れの日というしばりがあり、なかなか行けない。5月、緊急事態宣言が明けたらすぐに行こうね!と固く約束をしている。早く行けるといいのに。

昨日は午前中に婦人科に行き、図書館で予約していた本を受け取ってきた。婦人科へは生理を遅らせるピルをもらいに行った。これで二回目。二回目にもなると慣れたもので、問診票を見て「ほぉ、こんなことも書くのね」などと動揺することなく、淡々と採尿し、体重血圧を測定してもらい、女医さんに手短に説明…ここで少し問題が起きる。来院の時期が遅かったらしい。遅らせる期間を長めにとりたかったのだけど。するとそれだけ次回の出血量が増えてしんどくなってしまう。早めに来院していれば、生理を早めることができたのに…とのとこと。次に来る生理のしんどさとセックスしたいという欲望。迷う余地なく、欲望を優先させる。遠距離は性行為するのも一苦労なのだ。

図書館ではナムインスクさんの「実は、内向的な人間です」と、岩淵悦太郎の「悪文」、村上春樹の「1Q84」を借りた。今の図書館はよくできており、ネットで借りたい本を指定し、届いたら取りに行くシステムがあるのだ。通勤電車の中で、気になっていた本をちゃちゃっと検索して予約ができる。とても便利。感動して父に伝えると、「インターネットネイティブがいまさら何を」と呆れられた。これは非常に示唆に富む一件である。インターネットネイティブであっても、そこにアクセスする知恵や能力がなければ図書館の便利な使い方を知らないのである。ツールがあることと、それを使いこなすことはまた別物。

午後は母とお気に入りのカフェに行った。緑の多いお庭を眺めながらゆっくりとお茶ができる。シナモンがたっぷりかかったアップルパイを食べる。音楽のチョイスも好きだ。昨日はウェス・モンゴメリーがかかっていた。お店のそこかしこに葉陰がそよそよとなびき、それぞれのテーブルにはお庭から詰んだお花が生けてある。お花はコデマリとヤマブキ。ヤマブキは昔色鉛筆でみたあの山吹色そのものの色をしていた。夕暮れ時にはキャンドルが灯る。
カフェを後にして、これまた好きな飲み屋さんに駆け込みと称して一杯だけ飲みに行った。当然一杯だけで終わるわけはなく、結局夜遅くまで飲んでしまった。
お店を出た後、運悪く人の悪意に触れる出来事にあってしまい警察騒動にまでなった。実害はなかったけれど、好きなお店に寄り、気持ちよく帰宅したかっただけに残念だった。昨日はなんだか盛り沢山な一日だった。

 

春はあけぼの、四月は師走

4月は忙しい。ほとんど毎日残業している。一昨日はイヤになって仕事を終わらせてもいないのにぜんぶ放って定時に帰った。昨日も。定時の5分ほど前からパソコンを片付け、コップを洗い出す。定時ぴったりにお先に失礼しますをする。できれば今日もそうしたい。
残業は嫌いだ。私の職場では残業する人の方が多いから、ちょっと残業が続くだけで嫌気がさすような私はたぶん例外だ。母には4月が忙しくなきゃあなたいつ忙しいのよ、ひと月ぐらい頑張りなさいと発破をかけられる。ごもっともな見解である。
どんな時も定時ぴったりに帰る人を「あの人ぜったい定時に帰るよね」と非難めいた口調で言っている人がいた。彼女ほど露骨じゃないが、私もたいてい定時に帰っているから多分、いや絶対に何か思われてるんだろう。どうせ帰るのなら一分でも早く帰りたい。終業の合図と共にさよならしたい。

つくづく図太くなったと思う。母にはあなたは元々図太いと指摘されるが。であれば、その図太さを隠すことがなくなったのだろう。残業した私の時間を誰も返してくれやしない。
他人になんと思われようと自分の快適さを追求した方がいいなと思うようになったのは、以前ブログにも書いた人生唯一のモテ期がきっかけだったと思う。私という人間はずっと変わらず地続きの人生を送っている。それなのにその時々の容姿やステータスによって人の評価は変化する。そんな曖昧なものを頼って生きるなんてアホらしい。評価するのは勝手にしたらいい。私も他者を見て勝手に色々と思ったりするのだから。けれど、評価される人間は私が選ぶ。


最寄り駅まで歩くとハナミズキ、チューリップ、藤の花、ツツジ、木香薔薇、たくさんの花を眺めることができる。川にはたんぽぽと菜の花が自生している。少し前の桜の季節には川に花びらが散って白い波紋ができていた。春はいいものだ。冬の緑の少ない街が花で色づく。夏になんかならず、ずっとこの季節が続いたらいいのに。そして穏やかに秋をむかえ、キンと冷えた冬。暑い夏はひと月ぐらいで十分だ。
綺麗な街である。ここに家を建てたいと思った両親の気持ちがよくわかる。私の生涯賃金なんて知れているが、稼げる人や資産家の方にはたくさん納税していただき、街の景観美化、緑化のため立派なお庭のあるお屋敷を建てていただきたい。
みんなで貧しくなったらいいじゃないと上野氏は言っていたけれど、みんなで豊かになる方向で考えませんか?やっぱり難しいのでしょうか。富める人が増えると、ただ街を歩くのだって楽しい。

スクリーンタイムを減らすようにしている。今のところいい感じ。

スマホ脳を読み、スマホがますます手放せなくなってきている自分に危機感を感じ、スクリーンタイムを減らすよう行動している。マシュマロの実験で、大きな報酬を得ることを選択できる人であり続けたいと思ったから。

スマホをだらだらといじってしまう理由がわかると、「あ〜今私の脳はドーパミンがどばどば出てる状態なんですね〜」と自分の脳内を客観視することができる。この第三者的視線はやっぱり大切で、その意識があるとスルッとスマホから手が離せる。
具体的にスクリーンタイムを減らすためにしていることを書き出してみる。

①お休み時間モードを設定する
スマホの設定欄を見てみると、お休み時間モードというものがあった。いじってみると、設定した時刻になると画面がモノクロになる仕様になっている。スマホ脳にも画面をモノクロにするだけで脳への刺激が減って良いということが書いてあったので、22:30〜7:00までに設定する。その間、通知がくることもない。

②なるべくそばに置かない
とは言っても持ち運ばないわけにはいかないので、自宅にいるときそばに置かないようにしている。特に本を読んだり、何か集中して書き物をしたいとき。メモをとるのもノートとペンでしている。

③それぞれのアプリに制限時間を設ける
いくらでも時間がつぶせてしまうアプリに制限時間を設けた。TwitterInstagram楽天ROOMはそれぞれ15分15分20分にしている。ぼんやり眺めていると、あっという間に制限時間残り5分ですという通知が来る。

④1日のスマホ使用時間をトータルで2時間程度にする
これは心がけているだけ。彼とライン電話をするときやブログの下書きをするとき、調べ物をするときはこんな制限時間などはあまり役に立たない。けれど努力目標があることはポジティブな効果がある。

SNS系のアプリはスマホのメイン画面に置かない
ロックを解除してすぐに触れる場所に置かない。ひと手間ふた手間かかるところにアプリを移動させるだけでSNSを触る回数が減った。今までどれだけ目的なく、習慣的に画面をスクロールさせていたのかを痛感している。


こんな感じで何か特別なことをしているわけではないが、確実にスクリーンタイムは減っている。スクリーンタイムを減らすのに最も効果的だったのは物理的解決策である、②なるべくそばに置かないだった。自制心というものがあるはずなのに、この解決策が一番有効なのはなんとも哀しい話である。自宅で読書をするときは絶対に違う部屋に置くようにしている。

スクリーンタイムを減らしたことによる嬉しい効果は、夜自然に眠たくなる時間が早くなったということ。それと目の疲れも軽減した。
肌荒れもダイエットを妨げる突発的食欲も睡眠不足が原因のひとつであることは往々にしてある。心身のあらゆる不調の元凶になるのは、食生活の乱れ、運動不足、そして睡眠不足だ。小学生のころ学習した「健康三原則、運動、休養、食生活」はとても大事なことだったのだ。女性の関心が高いトピックといえば、『美容』であるが何か特別なことをするより、美容の根本である『健康』のために運動、休養、食生活の三つを整えていきたい。

 

 

新緑まで

五月は私の好きな季節のひとつです。新緑の綺麗なころあなたに会えるのを楽しみにしています。

そう締めくくって東京に住む恋人にお手紙を書いた。彼に手紙を書くことは何度かあっても住所を書き、切手を貼り投函するのは背筋が伸びるような緊張感がある。とっておきのミッフィーちゃんの切手を貼った。

 

気づけばすっかり春だ。通りを歩くとソメイヨシノは半分ほど葉桜に変わり、八重桜やしだれ桜が見頃を迎えていた。喫茶店やパン屋さんのテラス席はほとんど埋まっていて、人も花も春めいている。

もみじは赤もいいが、緑が好きだ。紅葉より新緑の季節が好きだ。萩原朔太郎は「五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする」と言った。

概念としての冬が好きと以前のブログで書いたが、目が心地よく過ごしやすい五月も好きだ。よく晴れた日に青々とした緑を見るだけで貴族的な気持ちになれることをいつ知ったのかしら。天気がいい、緑が綺麗、凍えるような夜に星が綺麗。たったそれだけで心がふわっと嬉しくなる。これが年を重ねるということなのだろうか。そういえばこの冬はやはり寒かったのだ。数年ぶりにしもやけができていた。ペディキュアを塗りなおすときに気がついた。どおりで足先がかゆいと思っていたのだ。しもやけはなんとなくカサカサとした跡になり、元に戻るのに少し時間がかかる。いやなものだなぁ。

 

図書館のテラス席でブログを書いている。風が気持ちいいが、長くいると少し冷える。小さな水筒に白湯をいれて持ってきた。白湯が好きになったのもここ数年のこと。美容にいいのは知っているが、それ以上にあたたかいお湯は美味しい。暑い夏であっても白湯を飲んでいる。冷たい水はいくら飲んでもなかなか喉の渇きは癒えないが白湯はきちんと喉が潤う。なんとなく“おばあちゃんの知恵”っぽい。

 

どこかで合唱の練習をしているらしい。姿は見えないが、歌声だけ聞こえてくる。早く手紙が届くといいな。彼からもらった香水を振っておいたのだ。