歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

紀貫之の心情

 

皆もすなるブログといふものを、我もしてみむとてするなり。の好奇心でブログをはじめてみた。完全匿名であれやこれやと書き連ねてみようかと思う。現在、メモにぽつりぽつりと書いているわけですが、妙に晴れやかな心地。

 

ブログをはじめたきっかけは悪口を書いてやろうと思ったから。映画ダークナイトについて考え、卑近な悪といえば悪口ではないかと。

私にとって悪口とは「一人を指差せば三本の指が返ってくる」と言われ育った、およろしくないものという印象。ところが、分別のつく頃になって気づく。悪口のうまい大人たちのなんと魅力的なことか。古くは紫式部清少納言の悪口合戦。ナンシー関のゆるい消しゴムはんことヒヤッとした皮肉の絶妙なバランス。伊丹十三やら白洲次郎池波正太郎三島由紀夫たち、美意識で自らを縛った男が気に入らないものをこき下ろすときのユニークさ。確かに、私が小中学生だったころの悪口のレベルなんざあまりに低く、口にした方が負けである。そこにはなんの面白さもない。そして、悪口は言い過ぎてはいけない。悪口で盛り上がり、口角に泡飛ばすなどあまりに醜い。凡庸な人間はお利口さんに悪口を言わない方が得策ではある。「三本はの指」は間違ってはいない。だからこそ、“悪い”大人の下品でない悪口は蠱惑的ですらあるのだ。

 

私の将来のぼんやりとしたビジョンの一つとして、カナリアのさえずりのように心地よく、バターナイフのように滑らかに悪口を言うおばあさまになりたいというのがある。豊かな白髪をし、真っ赤な爪で、華奢なヒールを履き、ゲランの香水なんかつけていると尚よろしい。

 

そんなイケたおばあさまをイメージしてブログをやってゆきましょう。悪口を書き連ねるにあたり、ブログの名前は「歪み真珠」にした。山尾悠子さんの小説の丸パクリですね。我ながら自らの悪口をバロックパールに喩えるあたり、なかなかいい根性をしている。

一つの懸念事項としては、下品な悪口を書いてしまい自意識が「歪に」肥大化しないかという点。進化の袋小路に至ったアンモナイトの異常巻きのようになったりはしないかしらん。愛しい恋人を見つめる男の目のような、光を纏う歪み真珠にならんことを。


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