歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

何者

何者。朝井リョウさんの本のひとつだ。あの映画も原作も読んでいないが、妙に覚えている。俳優さんが豪華だったので見ようか迷ったのだ。確か、二階堂ふみ有村架純菅田将暉…エトセトラ。結局見なかったけど。私はその当時、大学二回生か三回生だったっけ。とにもかくにもぼんやりと覚えている。

何者。あの映画には『僕らは何者かになれるのかな』こんな宣伝文句がついていたはずだ。
自分以外の何者かになろうとすることは不幸への最短ルートだ。幸せになる唯一絶対の方法は知らないが、不幸せになりたいのなら、自分以外の何者かになろうとすればいい。
何者にもなれないのだと、それを知ったときから、はじめて自分の人生を歩むことができる。アッコちゃんのテクマクマヤコンカードキャプターさくらの星のステッキも、おジャ魔女どれみのタップも存在しない。ボタンを押したり呪文を唱えてみても、変身はできない。あなたはあなたでしかない。選択と行動を繰り返して、変わっていくことしかできない。

どうも世の中の変身願望が強いように思う。何者かになりたいのだろう。以前ブログに悪口を書いたかしら、一時本屋さんに平積みされていた「ほんとうに育ちのいい人がうんちゃらかんちゃら」という名前の本。逆SEO対策として名前は伏せる。し、そもそもまともに名前を覚える気もしない。なんだあの本は。あんなもの読んでしまった日には、目が潰れ、脳が腐り、手が錆付き、心が塵と化す。
「本を燃やす人間は、やがて人間も燃やすようになる」とはよく言ったもので、事実ナチスは人を燃やした。焚書七つの大罪に加えるべきだ。けれど焚書にも例外はある。育ち云々や胡散臭い自己啓発本の類は燃やしてもよい。(私は前世で自己啓発本に生まれ故郷を焼き払われ、一族郎党を嬲り殺されたのだ)
これらの本が流行るのも変身したように錯覚できるからだろう。お手軽な麻薬。簡単に気持ちよくなれる。そんな質の悪い本で得る快感より、セックスで得る快感の方がよほど上等だ。


高校時代の友人に会った。私は彼女のフラットさが大好きだと再確認した。彼女は何者でもなく、ただ自分の道を歩いている。羨ましければ、ただ羨ましいと、そう言える人だ。そこに妬み嫉みはない。いや、あるのかもしれないけれど、その発露が下品ではない。粉雪のようにサラッとしていて、手のひらであっという間に融解するような気持ち良さだ。あれは彼女の美しさだ。彼女は間違いなく自分の人生を歩いている。それもとても軽やかに朗らかに。

何者にもなれない。魔法なんてどこにもない。

生まれたときからあなたはあなただ。それ以上でも以下でもない。太宰は「大人とは、裏切られた青年の姿である」と残している。何に裏切られたのか。きっと我々は子どものころの“変身願望”に裏切られたのだ。その美しい諦念から何者でもないわたしの人生がはじまる。そう思いませんか?

#この1年の変化