歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

悪しきもの

 

テレビのワイプ
悪しきものの中で、私が最も嫌いなものだ。はじめてあの存在に気づいたのは何時だっただろうか。気づいたらいつの間にか浸透していた。あまりにも気味が悪い。あの小窓にはVTRに合わせて、しかめっ面をしてみたり、したり顔で頷いてみたり、穏やかな笑顔をした仮面のような顔が張り付いている。あぁ気持ち悪い!!芸能人たちがあの顔で反応することが我々に何の関係があるのだろうか。『あなた達視聴者もこんな顔、感情になりなさいね』ということなのだろうか。「泣ける映画」なんてバカの極致みたいな宣伝文句が流行るのもここに関係がありそうだ。わかりやすいものがいいのだろう。わかりやすく、みんなと同じ感情がいいのだろう。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んで恐がっている場合ではない。あの全体主義の社会は今ここにある。あのワイプに疑問を持たずのうのうと受け入れちゃいけない。


Twitterでよく見かけた犬や猫の首にボードをぶら下げ「ぼくがやりました」と壊れた花瓶の前とかで写真を撮るやつ
毛沢東紅衛兵と同じことを抵抗できない動物にやってる。しかもそれをカワイイとしている。バカの無邪気ほど怖いものはないと思った。


胡散臭い人たち(キンコン○○とかほり○もんとか箕○など)の自己啓発本を読んで何かを得た気になっている人
この話は映画アカウントの方で書いたが、自己啓発本を読むならそんな怪しいものじゃなくてナポレオン・ヒルとかスティーブン・R・コヴィーとかカーネギーを読んだらよろしいやん。なぜそこでそれを選ぶんだ…残念すぎる。好きな人がこの辺の本を読んで、かつ喜々としていたら100年の恋もさめる。焚書ものだ。


積み重ねた本や雑誌の上にテーブルランプを置くインテリア
本や雑誌の上にものを置くなよ。


〈一年の最後に〉
悪しきもの、今回は「何となく気に入らない」ものではなく、明確に大嫌いなものを書いた。歪み真珠として、「美的感覚は嫌悪の集積」をモットーにブログをはじめたのだから最後は悪しきもので締めくくりたかった。
こうやって嫌悪の対象を書き残して置かないといつの間にか当たり前になってしまったワイプのようにそれを自然に受け入れてしまいそうで不気味だ。何事もなれてしまうものだから。わたしは私の中にある美意識のようなものを絶対に失いたくない。だからこうやって書き続けていたい。たとえ不格好で下手な文であっても私の考えを言語化する作業を怠らずにいたい。一年間お付き合いありがとうございました。