歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

冬 高村光太郎とパールと冷え症

 

寒さには弱いけれど、概念としての冬は好きという話。昨夜タクシーから降りると、綺麗な星空が見えた。暖かくともやはり冬だ。

好きな季節は?という問いはいつも上手に答えられない。何気なく聞かれているのはわかっていても、それぞれの季節に抱く感情が交差してまごついてしまう。けれど一等思い入れがあるのは冬だろうか。

 

①冷え症

寒いのはきらいだ。暖かい部屋にいると、手足は冷えたままなのに顔はのぼせる。中高生のころ、真っ赤に火照った顔をからかわれてイヤだった。湯船につかるときは冷えすぎた足先が感覚をなくし、お湯に触れるとびりびり痺れた。足先からそろりそろりと慎重にする必要があった。

思春期を終え、漢方のおかげもあってか火照りや痺れるほどの冷えは治まってきた。それでも手は冷たい。その手で彼の手に触れると「つめたっ」とびっくりさせてしまう。そういう時はわざと彼の袖の中に手を入れて暖を取る。

昨年は彼と付き合ってはじめての冬だった。私の手の冷たさに慣れない彼は「冷たい〜手離そ〜」と言っていた。少し腹が立った、冗談でも気が悪い。私は、じゃあもういい、と拗ねて手を離した。すると、きちんと私の手を掴まえて、「そこは離さなくていいんだよ」と少し寂しそうに言った。それ以来、彼は手を離そうと言わない。そして今年も変わらず、私の手に触れて「冷たい手だねぇ!」とびっくりしている。

 

高村光太郎

社会人一年目のとき。両親と三人で地元のお気に入りのお店でお食事をした。12時過ぎにお会計をしてお店を出る。母は自転車で先に行き、私と父は歩いて帰った。冬の冷たい空気の中で父は高村光太郎の詩を諳んじた。「きつぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になった/きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た/冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ/しみ透れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のやうな冬が来た」そうして私に、この詩が好きだと教えてくれた。古い記憶だが、私はこの詩を父から何度か聞いたことがあるような気がする。

夜遅くなった冬の日は、しぃんとした坂道を登りながらたまにこの詩を口ずさむ。冬は僕の餌食だ、刃物のような冬だ。

 

③パール

クラシックとは冬のものなり。そもそも毛皮、ウール、カシミヤ、革など素材からして冬は豪奢になる。夏ならば分不相応な装いをしても、寒いのよの一言でやってしまえる。それが冬。年中、耳か手にパールをつけているが、パール一連のネックレスを気兼ねなくつけられるのは、やはり少し肌寒くなってからだろう。ロングコートの中に薄手のカシミヤのタートルと祖母からもらったパールネックレス。華奢なブーツを履いて、ハンドバッグを持つ。柔らかくてピッタリとした革の手袋。画竜点睛とばかりにゴールドの大振りなイヤリング。嗚呼、妄想は楽しからずや。

 

今年の冬は寒くなると言ったのは誰だろう。今日もまだ暖かい。薄着でも大丈夫そうだ。ならば、ジーパンとカットソー、ゴールドの大袈裟なイヤリングをつけて、すました顔をしていたい。