制約と色気について
「スマホ対応の手袋」というものが大嫌いで絶対に持ちたくないものの一つだなと、毎冬思う。薄っぺらい雑貨店に並べられているのを横目に足早に通り過ぎている。手袋は柔らかくてぴっちりと手に馴染む革製で、手を覆う機能それだけを持っていればよい。スマホ対応と聞くと色っぽさが途端に消え失せてしまう。そう、色っぽくないのだ。興醒めだ。これは何も「スマホ対応の手袋」に限った話ではない。「落ちないリップ」も色っぽくない。たとえ不便でもキスをしたら、ワインを飲んだらおちてしまう口紅じゃなきゃ。口紅に付随する素敵な思い出を「落ちないリップ」なんかに駆逐されてたまるものですか。
不自由さに美徳を見出してしまう。人でも物でも。
小学生の頃だ。人生で初めて、一生を共に過ごしたいと願った男は、ブラック・ジャックだ。今でもこの世の誰よりもセクシーないい男だと信じている。彼の「不自由さ」に惹かれた。『自分の信じる美しさ』に自ら縛られた人は男女問わずとびきり蠱惑的だ。
恋人の好きなところは?という質問は難しいものだ。でも、一つ確実なことは、彼も自ら縛られている。さらに憎いことに「縛っているもの」があることはわかっても、その美意識の縄の正体は掴みがたい。ズルいわねぇ。わかりやすいのに、わかりにくい。
よく言われる「ミステリアスな人はモテる」の答えは、このあたりにあるのではないでしょうか。『彼/彼女は自ら縛られている。けれど、その縄の正体が見えない。見ようと近づいても上手に逃げられてしまう。』
琥珀に閉じ込められた昆虫のように、好きな男の甘い縄に絡まって死ぬのなら本望だ。
佐藤雅彦氏(ピタゴラスイッチの人といえばすぐわかるだろうか。彼のノーブルな雰囲気がとても好きだ)の毎月新聞に「たのしい制約」という章がある。読んだ当時、子供心に面白く思い、その考えをずっと大切に持っている。制約があるからこそ生まれる自由がある、楽しさがある。スマホ対応の手袋や落ちない口紅を厭う出発点は、「制約があることのたのしさ」と近いところにあるのではと思う。自らの美意識で不自由になった人たちの魅力もきっとここにある。
制約と、不自由さと色気について。とりとめもなく考えていたことを文章にするのは楽しかった。また書きたい。
おしまい。