歪み真珠

美的感覚とは嫌悪の集積である。

自己申告制

 

凡庸な人間ははったりを使いこなすべきだ。あれは数をこなせばできることなので。
貴方たちが、私を美人だと、賢いと、センスがいいと、魅力的だと、評価しなくとも私は私をそう評価するのです。学歴も頭のできも容姿もお家柄も年収も完璧じゃあない。でも堂々としてれば、もはや勝ったも同然だ。何に勝つか?世間の評価です。鬼滅の刃にもあったじゃないですか、生殺与奪の権を相手に与えるなと。自分で決めたらいい。とにもかくにも堂々としておくこと。偉い人だろうが、容姿で食べていける人を前にしようが、先輩だろうが、上司だろうが、堂々としていれば良い。その人のステイタスと私の価値になんの関係があろうか。

常々思うことだが、自分を魅力的だと思わなきゃ綺麗になれるわけがない。出発点は自尊心だ。綺麗になれるポテンシャルがあると思うのだからその努力をはじめる。お化粧をします、爪を塗ります、ダイエットをします、似合う服を着ます、ヒールを履きます、二の腕や脚を出します。はじめっからムリだと思っていたらその努力すらしない。「私はやればできる子だと思っています」ただ、ここに頭の良し悪しが関わってくるから少し寂しい(至極当然のことではあるのだが)
これは何も美醜の話に限ったことじゃない。なんの保証もなく、受験勉強を頑張ることも同じ。勉強します、苦手を克服します、模試で結果を出します。就活なぞさらに複雑怪奇なり。受験勉強は点数、就活は人間性やらコミュニケーション能力やらよくわからないフワッとしたものをアピールしなきゃならん。あんなもの自信がなくちゃできない。最高学府を出たらば、即ご希望通りというわけにはいかないのだ。偏差値の低い大学よりかは希望は通りやすいので、学歴はあった方がお得だ。足切りはされない。

これは私のコンプレックスに関わる話なので書こうか迷ったが、書いちゃう。つまりは、書けるぐらいには浄化されたということだ。
中学生のころお顔のほうがイマイチであった。今だって綺麗な造りではないが、あの頃よりかは綺麗に見せる方法を知っている。社交性のなさや嫌いなものの方が多いこの性格を上手に扱う方法も知らなかった。全体的に浮いてたように思う。同じ部活のイケイケな人たち主導でいじめられたこともあった。(壮絶なものではなくて、中学生の女にありがちな細々したものだけど)学年に一人はいるこわい先輩にはなぜか目を付けられた。ちょっといいな、なんて思っていた男の子は違う女の子とお付き合いしていた。
成人式。私をいじめていた女から、なんとなく私を遠巻きにしていた女から、綺麗になったねと驚かれた。中学生のころかっこよかった男たちから連絡先を聞かれデートに誘われた。えぇ正直に言いますね、勝ったと思いましたよ。何にかはわかりませんが。
なぁんだ、そうなんですね。世間の評価なんてこんなものか。私は何一つ変わっちゃいない。おんぎゃあと産声を上げたときからずっと地続きの「私」をやっている。世間がその時々のわたしを見て、勝手に評価しているだけだ。不細工だとか、かわいいだとか、変わってるだとか、頭がいいだとか。ならば、ぜんぶ自分で決めてやろうと思った。自己申告。たとえ「そう」でなくとも、そうなんですよ、と言ってやればよろしい。